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くもりの日にはくるりのうたを

 

くもりの日にはくるりの歌が聴きたくなる。

小雨の時はFishmansで、土砂降りの日にはSuper Butter Dogの「Rainyway」が聴きたい。もしもディープなファンの方がここを見てくれたのなら、浅い知識でこれからくるりの好きさを語ろうとしていることをお許し下さい。

どれくらい私がにわかかというと、良い感じのサブカル好き男子に、いつも何聴くの?と聴かれた時、会話を繋げようと「くるりとかかな?…」とか言ってみたりするくらいにわかだし(そしてそれは絶対に外さない)、テレビで歌う菅野美穂や多部ちゃんの姿を観て、あ!新曲出るのかな?と思い出したように検索を始めたりする程度のにわかだ。

 

だけどこれだけははっきりと言い切りたい。くもりの日にはくるりの歌がぴったりだ。どんよりしていればしているほどいい。そして今にも泣き出しそうな曇天の中で聴く、くるりの音楽はあまりにもぴったりすぎて、私の今までの人生のあらゆる場面にタイムスリップして泣きそうになる。

例えば「東京」が流れたら、初めの4行の歌詞でもう泣けてくる。1998年に発売された「さよならストレンジャー」。私が初めて買ったくるりのアルバムだ。東京の街なんて家族旅行でしか行ったことなかったし“君”というワードには、まだ見ぬ未来の恋人をイメージするしかないくらい子どもだった。あれから気付けば、20年もの月日が流れてしまった。今なら分かる。分かってしまう、都会のさみしさと自由がそこにあるのだと。歌詞の中に出てくる“恥ずかしい事”のないように見える、大人になった自分と素敵だった君。手紙のように綴られる限定的なエピソードは、不思議にも、聴く人たちのこれまでの記憶にフィットする。

きっと同じ曲を聴いて涙する誰かがいても、頭の中で思い出す何かは、人それぞれで全く違うのだろう。だからこの曲はすごくて、くるりは偉大だ。

 

くるりの曲で何が好きかと聴かれたら、「WORD`S END SUPERNOVA」と「魔法のじゅうたん」をあげる。他にもたくさんあるけど、この2曲は特に好きだ。「WORD`S END SUPERNOVA」のおしゃれすぎる悲しさって、今の世の中にぴったりな気がする。朝が来ないまま、考えては忘れて、踊り続ける僕たちは、クールなふりをして毎日を戦っている。曲が盛り上がり、終盤に差し掛かると出てくるフレーズ、“1.2.3でチルアウト”した音楽にふたたび鳴り響くビートマシン。この音楽からは、夜を越え旅に出るその時を、虎視眈々と待っている僕たちが思い浮かぶ。そう。私たちは、クールに、踏み出すことを迷ったり、忘れたふりをしていても、心を消したりはしないのだ。

 

「魔法のじゅうたん」の大好きなフレーズがある。

泣かないでピーナッツ 

クリームになったピーナッツ

パンと バターナイフで塗って食べよう

それは初めて聴いた時、謎のかわいい歌詞だったれけど、とてもとても深い意味が込められているように思う。

ピーナッツは泣いているのだ。

なぜかって、クリームになってしまったからだろう。

 とても深い関係だと思っていた君が、新しい世界へと旅立つ。そんなシュチュエーションだろうか。とてもよく知った人だと思っていたのに、人はしょせん別々で、相手の考えてることなんて、本当のところ何にも分からない。だけど、“僕”は、そんな愛しい他人の幸せを祈っているのだ。

“夢見がちだった風景”を夢見たままの世界へとこれから変えるところだと歌う。

そこで登場する泣いているピーナッツ。固い殻に包まれていたのに、クリーム状になってしまったピーナッツ。これは、社会に揉まれ小さな夢しか抱けなくなった、私たち大人のことなんじゃないかと思っている。

私って、どんな人間になりたかったんだっけ?これで良かったの?そんなふうに、不本意なものに成り下がったはずのピーナッツは、パンに塗られて、おいしい食べ物に変身する。ひとりぼっちじゃなれなかった、なんだかお洒落な食べものに変化する。

心はひとつになったんだ

パンとピーナッツクリームを頬張れば、いつでもそのことを思い出せる。よく分からない他人と愛し合うことの寂しさと、思いやることのぬくもり。

夢見たように飛んでゆけるから

魔法のじゅうたんは誰もが持っている。さみしい世界で、どこにだって飛んでゆけるのだと、そっと寄り添うように押しつけない優しさでもって、それは奏でられている。

 

 

 

くるりの音楽はロックだけど、ずかずかと心の中には踏み込んでこない。夢を持たない、何にも熱くなれない誰かにも、強い野心を抱きながらも、それをなりふり構わず追いかけられない誰かにも、そっと優しく寄り添う。寄り添うっていうのも違うかもしれない。優しく包み込んでくれるんじゃなくて、そっと隣にいてくれるっていう言葉の方がぴったりなのかもしれない。

喜怒哀楽の中間にある、なんとも言えない感情を、絶妙なサウンドと歌詞にのせて奏でる。

あくまでもそのスタンスは、クールで柔らかく都会的だけれど、そんな中でも どうしたって大号泣する曲がある。

 

「言葉はさんかく こころは四角」

 さよなら三角、また来て四角、四角はとうふ…というわらべ歌(?)のようなものがあるけれど、関係があるのだろうか?もしも枕ことばのようになっているのなら、さよならの言葉と裏腹に、心では、また会えることを祈っているよ。と歌っているのだろうか。

知らない街角の

知らない片隅で

知らない誰かと恋に落ちるだろう

 幼い女の子はやがて、そんな風に大人になってしまう。つないだ手を振り払って、ひとり、知らない街へと駆けて行く。

 

大きくなった女の子の毎日は楽しい。時々小さなことでイラついて、落ち込むこともあるけれど、バカみたいなことで笑いあえる人がいる。互いの愚痴を言い合って、ひとり戦う毎日を、慰め合える人がいる。だけど、人はみんな誰かといても、孤独でさみしい生き物で、漠然とした不安に、大切なことを忘れてしまう。

 

私の匂いはずっとあの人の匂いだ。

『パパと結婚する!』だなんて、ありえないと知りながらも口にしてみたりした、まだ恋を知らない女の子。幼い男の子は、ママにとって、世界でたった一人の王子さまで、幼い女の子は、パパにとって世界でたった一人のお姫さまだった。

私はあの頃、誰かにとってかけがえのない存在だった。かわいいお洋服を着て、望みは何だって叶えてもらえて、目に入れても痛くないほど、甘やかされた、かわいいかわいい女の子だった。

いつしか、その大きくて温かな手を振り払い、ひとり、知らない街を歩く。口にする言葉は、とんがったさんかくだ。そして、擦れてしまった四角いこころで世の中を見渡している。

それでも、こぼれ落ちる涙はまるい。どんどんどんどんぼろぼろと流れてくる涙で、カクカクしたどうしようもない気持ちもまるくなって飛んでいけばいい。

 

だから、今にも泣き出しそうな曇天の空にはくるりの音楽がぴったりだ。